「ベルギー奇想の系譜」展行ってきた

@Bunkamura ザ・ミュージアム
(※会場写真は美術館の許可を得て撮影しています)

いやー やばかったやばかった。耳が妊娠するかと思いました(下品ですみません)。
「ベルギー奇想の系譜」展、やっばいぞ。軽率な気持ちで音声ガイド借りると、スタートボタン押した瞬間転倒することになるから気を付けてくださいね。

情報が解禁されてから密かに気になっていた本展。
ざっくり言うと、ベルギー周辺地域で500年間描き続けられている「奇想」は一体どのようにして生まれ、今日まで受け継がれてきたのか。古今30名の代表作家による約120点の作品を観ながら問い直してみようという展覧会

15世紀から16世紀にかけて、ベルギーとその周辺地域では写実主義を踏まえながら、空想上の物事を視覚化した絵画が発展しました。人々に伝えるために、キリスト教の地獄絵とか、寓意を誇張したものとかをリアルに描くというやつです。
やがて18世紀に入り、自然科学や啓蒙思想が発達して不思議系やオカルト系が解明されていくと、今度は「心の闇」に焦点が当たるようになりました
それらは産業革命後の19世紀にて象徴主義表現主義へと引き継がれ、20世紀、そして21世紀となった現代にも、シュルレアリスムなどを通じて彼の地に於いて脈々と受け継がれているのです。

昨今「奇想」という言葉を目にすることが多く、「まーた奇想かよ」と思う方もいるかもしれませんが、本展は単に流行りの言葉を掲げ、奇妙な絵をたくさん並べて「ハイ、奇想です」っつーものではなく、ベルギーが持つ複雑な歴史をベースに絵の文脈を考察していくという真面目な展覧会でした。

でもね、それだけじゃなかったんですよ……。

事前にサイトを見てびっくり。音声ガイドに速水奨」の文字が……!
ここ何年かで声優さんが音声ガイドを担当されることが増えました。もちろんアナウンサーの方が担当される音声ガイドも素晴らしいんですけど(山種のレギュラーさんは超美声)、やっぱりね、オタクとしては声優さんがやってくれると嬉しいわけですよ。しつこいくらい言うけど、昨年開催された「ゴッホとゴーギャン展」とか音声ガイドをCDにして図録につけてほしいと思ったくらいだったからね。

速水奨さんと言えばそりゃもう天から与えられし貴重な美声の持ち主なんで、ガイドはどんな感じでやるのかな~と楽しみにしていたんですが、率直に言ってやばかったです。
冒頭にも書いたけど、スタートボタン押した瞬間膝から崩れ落ちそうになりました。美術館の音声ガイド聴いて「待って待ってやばいやばい」って焦りながら一旦停止するなんて初めてよ……。これ、何も知らない人が聴いたらたまげるんじゃないだろか。個人的には魔術師・遠坂時臣ナビゲートとお見受けしました。

速水さん、予てから展覧会の音声ガイドをやってみたかったそうな。「(音声ガイドは)ワンコイン程なので、ランチを食べる感覚で耳にも栄養を」と仰っていましたが、ランチどころかドーピング。これで520円ははっきり言って破格です。

そんな危険で甘美な音声ガイドと共に旅するベルギー500年の旅。
内容共に豪華すぎるので、少しでも興味がある方は逃してしまう前にぜひ行っていただきたいと思います。

 

 

 

第1章 15~17世紀のフランドル美術

この章では奇想のルーツをヒエロニムス・ボスに求め、そこからブリューゲルの時代への継承、さらにはルーベンスによる“恐れ”や“怒り”などの激しい感情表現への発展までを追っていきます。

ベルギーはスペイン、オーストリア、フランス、オランダなど様々な国に入れ替わり立ち替わりに支配された過去を持ちます。その影響が現代にも残っており、国土は九州くらいのサイズであるにも関わらず、いくつもの言語が介在しています。
かような状況下で人々がどのようにして共同体を作っていたかというと、“キリスト教”というコミュニティで辛うじて結ばれていたとのこと。

人々の識字率はもちろん低く、経典を繰り返し聞かされてきた文字の読めない民衆たちにとって、そこに出てくる奇蹟や地獄 ――実際にはありえないけれど、彼らにとっては真実であること―― を視覚化した絵画こそが情報の源でした。
この地方ではそういった絵画が生まれる下地に「写実主義描写」があり、その伝統を踏まえたうえでグロテスクな怪物や夢のような楽園が描かれているものですから、無駄に信憑性が高かったわけです。

ヒエロニムス・ボス工房
《トゥヌグダルスの幻視》
1490-1500年頃/ラサロ・ガルディアーノ財団、マドリード

そんな中で突出した才能を発揮したのがヒエロニムス・ボス。名前は知らずとも絵を観たことがある人は多いのではないでしょうか。ボスの真筆は世界でも20点しか存在しないので、今回来日しているのはボス工房のものですが、それでも十分。ブリューゲルをはじめ、後世の画家にとっていかにボスの影響が強かったかが良くわかります。そしてヤン・マンデインに至っては田中圭一氏なみに追随している。

ヤン・マンデイン
《聖クリストフォロス》
制作年不詳/ド・ヨンケール画廊

 

現在 国立国際美術館で開催中の「バベルの塔」展でも展示されていますが、ブリューゲルといえば寓意を散りばめた版画が有名。今回も七つの大罪シリーズを軸に多くの版画が展示されていますが、こういったものは「悪いことばっかやってると地獄に落ちるぞ!」という教えであり、日本の六道絵(地獄絵)同様、リアル且つグロテスクに描けば描くほど意味があったのでしょう。現代の我々から見たら可愛らしく見えるモチーフも、当時だったらたいそう気持ち悪かったんじゃなかろうか……。

ぺーテル・ブリューゲル(父) 《忍耐》
1557年/プランタン=モレトゥス博物館、アントワープ

 

さて、この章の最後ではルーベンスが取り上げられています。ルーベンスって、あの「フランダースの犬」に出てくる《キリストの降架》を描いた人でしょ?奇想じゃなくない?と思うかもしれません。
そうなのだ。私もちょっとピンとこなかったんだけど、実際絵を観て、この展覧会の本意が何であるかを理解するには、ルーベンスは不可欠だったのかもしれないと思いました。

ぺーテル・パウル・ルーベンス
左《習作、皮をはがれて筋肉構造があらわになった三人の男性裸像、一人は右腕を上げている》
右《同と頭の部分のある、左の腕と手を二方向から見た図》
ともに1630年ごろ/ベルギー王立図書館、ブリュッセル

一見何が奇妙なのか分からないんですが、そこがこの絵の狙い。
これ、リアルに描いてあるように見えるけど、実際人間の筋肉ってこうなっていないんです。
“躍動感”だとか“怒り”だとかを表現するために、敢えてあり得ない筋肉を描写している。

そう考えると、ボスもブリューゲルも、その他の画家たちも、「実際にはあり得ないものを視覚化」させるために“奇想”という手段を用いてきたわけで。言い換えればここで言う“奇想”とは、“目に見えないけれど確かに存在する何かを見せるための独自の表現技法”ということになるのではないでしょうか。

表情や行動にリンクさせない限り、感情というものは目に見えません。それをひと目で伝えるために、本来存在しえない筋肉を用いて表現する。単なる誇張表現でなく、リアルと対極にあるフィクションの力を借りてリアルを表すという表現技法は、次の時代の芸術家たちに多用されています。そう考えると、ボスの時代と次の時代を繋ぐポジションにルーベンスを置いたことは必然のように思えました。

 

さて、ルーベンス。この人は画家兼外交官としてイタリアに行ったりしていたため、ヴェネツィア派の表現描写が作品に現れているとのことなんですが。
この構図、どっかで見たことあるぞ……。

ペーテル・パウル・ルーベンス
《ライオン狩り》
1625-1629年頃/ブタペスト国立美術館

……と思って記憶をたどったところ、レオナルド・ダ・ヴィンチ《アンギアーリの戦い》が。
ていうかルーベンス、アンギアーリの戦いの模写描いてたよね?

ルーベンスによるアンギアーリの戦いの模写

下で転んでるやつ含めてほぼトレスじゃねーーーーか!
ボスが多くの画家に与えたこと然り、レオナルドの《アンギアーリの戦い》の構図はホントあらゆるバトル絵の元祖だな~としみじみ思ったのでした。

 

 

第2章 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派・表現主義

1830年、ベルギーは国家として独立を果たします。

時は産業革命。資源が豊富なベルギーは破竹の勢いで国力をつけ、皆現実を見てもりもり働き、かつて人々が怯えていた地獄や魔物はいつしか空想上のものとして片づけられるようになりました。
しかし「闇」が完全になくなったわけではありません。科学技術が進む中で、尚以って拭いきれない「闇」。それは人の心の中、そして避けては通れない死という存在の中に潜んでいたのです。

この章ではそういった精神世界や夢、死など、人間の内面を表現する美術家たちの出現に焦点を当てています。そしてここから速水氏の本領も発揮されます。

 

フェリシアン・ロップス[原画]
《娼婦政治家》
1896年/フェリシアン・ロップス美術館、ナミュール

会場内で「ヒエ~~~////」って言いそうになるのを!どれだけ!!我慢したことか!!!
フェリシアン・ロップスと速水奨の親和性恐るべし!!!!
もうな、この絵にガイドマークが付いてたら直感でやばいってわかるんだけど、こちらの予想の遥か上を行く良い声で「裸であることを強調する黒のストッキングに黒の手袋……」とか、「盛りのついた雌豚」みたいなことをね、耳元で言うの。かつてそんな音声ガイドってあった?すごくないですか?その手のCDで慣れてる人は大丈夫かもしれないけど、免疫ついてない人は心して聴かないとその場で破裂するから気を引き締めてくださいね……。

ロップスはエロスというよりエロティシズムとタナトスをオブラート抜きの直球でぶっこんでくるロートグラビア印刷のシリーズが良かったです。かなまら祭り系を取り入れた辛辣な風刺は分かりやすかったし、皆が知ってるあの絵が元ネタ!っていう作品もありました。

こちらはベルギー象徴派の代表的存在、フェルナン・クノップフ。一瞬写真かな?と思ってしまうほど精緻な描写は幻想的で美しい。

フェルナン・クノップフ
《捧げもの》
1891年/クレラー=ミュラー美術館、
オッテルロー

この人の作品、ベルギー云々言うよりラファエル前派じゃね?と思ったら、今回出品されている作品はちょうどラファエル前派の人たちと交流があった頃のものなんですね。女の人の顔がまんまそうだもんね……。あとクリムトぽいなと思ったら、クリムトはクノップフの影響を受けているというのでなるほど、なるほど。今回来ていないけれど、クノップフは《スフィンクスの愛撫》も良いですお。

今回は来ていませんが、クノップフによる《スフィンクスの愛撫》

 

で、ヴァレリウス・ド・サードレールですよ。

ヴァレリウス・ド・サードレール
《フランドルの雪》
1928年/アントワープ王立美術館

この人のことは全く知らなかったのですが、今回一番良かったのがこのド・サードレールによる《フランドルの雪》。見てくれこのたまらない薄暗さ。画面右奥の丘陵の照度の加減がホントすごい。あと少しで辺りが夜になるっていうより、端からやってくる闇に飲み込まれるみたいな瞬間。人々の暮らしがあるはずの風景に人っ子一人いない奇妙な静寂と不穏は一体何なんだろうな……。他の“奇想”とは少し違う、けれどどうしても忘れることができない一点でした。他の作品も見てみたいなあ。

独学で絵を描いたレオン・スピリアールトの《堤防と砂浜》もすごく良かった。不眠症になっちゃって、それ以来故郷の風景をほぼモノクロームで描くという作風に変わったのだそうな。調べたらこの人の作品も好みのものが多かった。つーか2003年に愛知県美術館で回顧展やってるのね。
ジェームズ・アンソールの作風はそこまで好きじゃなかったけど、人間的な闇はめちゃくちゃ抱えてそうで、人柄の方が気になりました。

レオン・スピリアールト
《堤防と砂浜》
1908-1909年/個人蔵

 

この時代になるといろんなことが科学で解明されてくるから、日本で妖怪が消えていったのと同じように、人々の間でオカルトみは薄れていったのでしょう。でもやっぱ死ぬのは怖いし、生きてる人間のどす黒い欲望も怖いし、何より自分を不安にさせる心の暗鬼がとても恐ろしい。
ひとつ前の時代では「目に見えないもの=空想上のもの」だったのが、今度は「目に見えないもの=存在するけれど実体のないもの」へ変わっていった。それを表現するために、奇想の精神が受け継がれていったのかもしれません。

 

 

第3章 20世紀のシュルレアリスムから現代まで

さあ奇想の旅もいよいよ現代へ。両大戦間にヨーロッパを席巻したシュルレアリスム運動。ベルギーでシュルレアリスムと言ったらルネ・マグリットですが、《大家族》《前兆》などの有名どころをはじめ、かなりの点数が来ていました。個人的には《9月16日》のエッチングを観ることができたのが良かったです。

ルネ・マグリット
《9月16日》
1968年/姫路市立美術館(展覧会図録より)

 

20世紀となると奇想表現は絵画や版画だけにとどまらず、インスタレーションや彫刻、写真、映像などにも反映されていきます。
この日は《生き残るには脳が足らない》の作家、トマス・ルルイ氏もいらしており、フォトセッション中カメラを構えるプレスに対し「皆さんの写真撮らせて!」とにこにこスマホを向けるなどチャーミングな一面も。この人の作品はアイデンティティを突き詰めるが故にそれが失われていく悲劇を滑稽に表現している。

《生き残るには脳が足らない》(2009年/ロドルフ・ヤンセン画廊)の前でポーズをとるトマス・ルルイ氏(左)と、本展キュレーターのエリック・ワイス氏(右)

 

個人的にはやっぱりヤン・ファーブルでしょうか。
ヤン・ファーブル、以前金沢21世紀美術館で「船越桂×ヤン・ファーブル」展をやったときに観に行ったんですよ。この時初めてまともに彼の作品を観たのですが、すごいのだ。昆虫でドレス作ったり、自身そっくりの像をつくってそこから鼻血を延々垂れ流したり、血とか精液で絵を描いたりする。母と一緒に観に行ったのですが、曰く「お母さんには、ちょっとこの人は無理かな……」。
好きか嫌いかって言われたら確実に好きではないんだけど、見ちゃうし気になっちゃう。そういう魅力があります。

実は本展の一番最初を飾っているのはヤン・ファーブルの《フランダースの戦士(絶望の戦士)》で、これは「入口に戦士を据えることでこれを本展の守護神とする」という意味からだそうです。で、何に対しての”絶望”かというと、フランドル地方の絶え間ない戦いに対して絶望しているわけですよ。絶望しつつも戦地に赴かなくてはならない。頭部は鮮やかに輝き立派な鎧もつけているけれど、彼の足を見て。あんなにやせ細り、一歩進むのも辛そうだ。

ヤン・ファーブル
《フランダースの戦士(絶望の戦士》
1996年/国立国際美術館
(展覧会図録より)

――――守護神と言っていたけれど、そういう像を入口に据えることで、同時にこの展覧会は栄光や繁栄とは対極の500年間を見つめ直すことを最初に提示している。
っていうのは私が勝手な解釈だけれど、この展覧会を通して観ると、歴代のベルギーの芸術家たちは、何かを皮肉るにしてもウィットに富んだアイロニーを用いるよりも本気で攻めに行ってる、ある種リアルなものが多い気がするのです。
それは初めの章から続いてきた”目に見えないネガティブなものは、リアルに存在しているかのように伝えねばならない”という一種の強迫観念や義務(って言ったら言い過ぎか)みたいなものと、虐げられてきた歴史や敬虔なキリスト教徒であるという精神面でのバックグラウンド故なのかなと思わずにはいられませんでした。

他にも陰鬱な風景と意味深で詩的なタイトルに惹かれるティエリー・ド・コルディエや、リュック・タイマンスミヒャエル・ボレマンス辺りが良かったです。

 

さて、この展覧会は最後の最後でちょっとしたジョークを交えていて、それがオチというか〆として良い味を出しています。いろんなことがあったからと言って自分たち自身が常にネガティブなわけじゃないんだよ、いつだって芸術という手段で言いたいことを伝えてきたんだよというベルジャンアーティストたちの強かさを感じさせる作品。

本作は言語に焦点をあて、言葉が通じない相手との対話という状況を提示することにより言語体系の不自由さや危うさを問おうとしたのではないかと言われる作品ですが、そうであるのだとすれば、第1章で述べた識字率の低い環境で経典に書かれた教えを広めねばならなかったこと、さらにはかつてベルギーが様々な国に支配されてきたがために現在でも地域によって言語が分かれることにも通じる作品だと言えます。
本作の作者マルセル・ブロータールスは、ともすれば重いテーマになるその問題を猫との対話(!)で表現。これ、猫の返答タイミングがとても良くて、ブロータールスがめっちゃ真面目な質問しているのに対して「ニャウ……ウ……」みたいに重々しく答えているのが笑えました。

マルセル・ブロータールス
《マウスが「ラット」と書く》
1974年/パーテルノステル・コレクション、ベルギー(展覧会図録より)
※《猫へのインタビュー》の手前にある作品です

 

 

ひとことに「奇想」といっても、その誕生は千差万別。今年は雪村展でもサブタイトルに「奇想」が取り上げられていましたが、日本の奇想はベルギーとはまた違ったルートで生まれたものでした。
個人の境遇、国の歴史、宗教、様々なものが背景にあって現れる奇妙な表現。ただ単に作風を楽しむのもいいけれど、その先へ踏み込むことで新たな顔を見ることができるのだと分かりました。

しつこいけど速水奨さんの音声ガイドは東京会場だけだからね!音源は販売されないのでここでしか聴けません!!耳にドーピングしながら奇想の系譜を旅できるのは9/24まで。気になる人は絶対に見逃すな!!

 

ベルギー奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで

会期: 〜 9月24日(日)
会場:Bunkamura ザ・ミュージアム
開館時間:午前10時〜午後6時  ※入館は閉館の30分前まで
(金曜日、土曜日は午後9時まで)
休館日:8月22日(火)
公式サイト:http://fantastic-art-belgium2017.jp/

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