「書だ! 石川九楊」展行ってきた


@上野の森美術館(※写真は美術館・主催の許可を得て撮影しています)

 

文字の海に溺れるように 生きている娘が一人いる
蟲に体を浸蝕されながら 蟲を愛でつつ 蟲を封じる
そういう娘が 一人いる

 

私の好きな漫画に『蟲師』(漆原友紀 著)という作品があります。『蟲師』とは、人や環境に影響を及ぼす”蟲”たちによるトラブルを解決する、蟲師と呼ばれるプロフェッショナルな人たちの話。実際に日本の文献(?)に遺されているものでいうと、≪針聞書≫≪姫国山海録≫に出てくる不思議な生き物が蟲のイメージに近いでしょうか。このサイト名である「雨がくる 虹が立つ」も、蟲師に出てくるとあるお話から拝借しました。(原題は「雨がくる 虹がたつ」)

蟲師画集「蟲襖」より。
この人物が主人公のギンコ

 

さて、その中のひとつである「筆の海」という話し。
蟲師たちから蟲退治の話を聞き、それを書き記すことで蟲を封じていく”狩房淡幽”という若い娘のお話です。といってもだた単に書き記すだけではありません。淡幽は蟲師たちから話を聞くことでそれを自らの身体に取り込み、身体に浮き出た文字(話の内容)を激痛に耐えながら紙に落とし込んでいく。そうやって蟲を、事象を、封じていくのです。

「筆の海」(『蟲師』漆原由紀)より
「筆の海」(『蟲師』漆原由紀)より

 

石川九楊の書。
それは、この「筆の海」の蟲封じそのものでした。

 

 

初めて石川先生の作品を観たのは偶然でした。
ちょうど会社の近くのギャラリーで石川先生の展示があり、ご本人が在廊していると聞いて行ってみたのです。(なんとなく敬称を先生としたくなってしまうタイプの方でした。霞を食べて生きているような……)

私は書には明るくないものですから、石川九楊という書道家の名前を知らなかったんですね(読み方も存じませんで……)。
詳しい友人に「石川九楊っていう人知ってる?」と訊いてみたところ、「めっちゃ有名。有名どころか、今一番売れてる書道家だと思う」との答えが。わたくしミーハーなもので、それならどんな作品なのか見に行ってみようと軽い気持ちで伺ったのですが、その”書”を見て驚きました。

前衛的な書道作品というものは実は結構存在します。「漢字かなまじり」や「臨書」のような”いかにも書道やってます”という作品のほかに、かなり自由に見える(でもいろいろ難しいらしい)書はたくさんあります。けれど石川九楊の書はそのどれでもなく、強いて言うならジョアン・ミロやカンディンスキー、ヴォルスの絵のような感じ。

左:《幽》
右:《楽》

「え、これ、字?」

たぶん誰もがはじめはそう思うはず。けれど不思議なことに、いくつか作品を観ていくと何について書いているのか何となくわかってくる。そんでちゃんと字になっている(まあ、なっていないものも有る)。
で、せっかく同じ空間にご本人がいたものですから「なぜこういう字になるんですか?」と不躾にも訊いてみたんです。
そうしたら、「世の中には、いろんなことがあるでしょう?そういうものをよく見て、一度自分の中に取り込んで、ずっと考えて、そして書こうとすると、その出来事がこういう字になって現れるのです」と仰るではないか。
まって……それって……狩房淡幽じゃねーーーーーか!!!!
いやはやリアル淡幽が存在するとは。

そういうことなら俄然話しは変わってくる。
もしかしたら書=ハードルの高い世界だと決めつけるには早いのかもしれない。もっと根本的な部分でぐっとくる何かがありそうだ。
そんなわけでいろいろお話を伺ってみると、石川先生は初めからこういうスタイルで書いていたのではなく、幼いころから大学入学くらいまでは、表現方法を模索しつつも所謂”書道をやっている人”的な作品を書いていたらしい。

先生がこういった自分なりの書をスタートさせたのは「現代において書は可能か?」という疑問が自分の中にはっきり浮かび始めてから。
自分が表現したい世界は確実に書の中にある。そして書でそれが表現できることは確信している。けれど、ならば書が日常ではなくなった現代ではどうやって……?と考えると、これがなかなか難しい。

そこで「そもそも白い紙に墨で書いたら”書だ”っていう風潮は単純すぎやしないか?それなら白くない紙に書いたらどうなるんだろう?」というところから始まり、敢えて灰色に変色させた紙に濃度を上げた墨で書きたいように言葉を入れていったのです。
そして生まれた作品が《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ》。キリストが磔刑に処せられたときに発した「神よ、なぜ我を見捨てるのですか」という有名なセリフですね。

《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ又は死篇》
※展覧会場にて撮影

これを制作したことで「現在の書」を書くことができそうだという手応えを感じた石川先生は、それと同時に「自分はこの先も表現手段として書をつかっていくだろう」と予感めいたものも感じたそうな。(実はこの時、石川先生は京大卒のサラリーマン。)

この灰色の紙に書いていくスタイルはそれから暫く続くのですが、もともとこのスタイルは書の固定観念から抜け出すために始めたもの。定型化してしまったら意味がないわけで。
手応えも掴めたことだし、一旦このスタイルには区切りをつけて、今度は古典やデザイン的な表現に着手してみようと次のステップに進むことになりました。
それまでデザインのようだと言われる書をタブー視してきた石川先生。しかし一皮むけたところでそこにも表現の可能性がありそうだと感じ、敢えて踏み込んでみることにしたそうです。

その結果が、この《歎異抄》

《歎異抄》
※「書だ!」の展覧会場にて撮影
《歎異抄》部分

あの、これ、言われないと分かんないと思うんですけど、ここに本一冊分の言葉(情報)が書き込まれているって、信じられる……?写真じゃ迫力が伝わりにくいのですが、生で見るとたまげますよ。
私はこの日、ギャラリーでこの《歎異抄》を生で見せてもらったのですが、正直ぞっとしました。

―――この字、生きてる……?

そう思ってしまうほどそれはある種異様で、一文字一文字が生命を持って、少しでも結界が綻びようものなら流れ出して逃げてしまうんじゃないかと思うほどだったのです。まさに前述の「筆の海」に出てくるワンシーンを思わずにはいられませんでした。

このシーン。実物の《歎異抄》は、紙から字が出てきてしまいそうなのだ。


これは書か?

書って、こういうものだったのか?

自分の中の「書」という概念がうねりながら形を変えた瞬間でした。
これが書の持つ力なのだとしたら、随分と我々は書を蔑ろに(と言ったら語弊がありますが)してきたものだ。「書」というものが、こんなにも驚異的な力を持っているなんて知らなかった。

私はその場で、唯々呆然としてしまって「すごい」としか言えなかったのですが、腕にびっしり鳥肌が浮き出ていた感覚はよく覚えています。
他にも『源氏物語』を書いたものもあるし、千の盃に一文字ずつ字を入れたものもあるよと先生は仰いました。

《盃千字文》
※展覧会場にて撮影。

 

私「それって、いつかどこかで観ることができますか?」
先生「夏に上野の森美術館で展覧会をやる予定で、たぶんそこに出ます」

マジか―――――ッッ!!!!!!
なんでも制作作品1,000点&刊行著作100点到達記念展とのこと。ほんとだ、たくさん本出していらっしゃる……。

石川先生の本は展覧会の特設ショップでも購入できます。読み物から実用書まで。

なんというタイミング。素晴らしい巡り合わせ。神様ありがとうございます。
――――というようなことがね、今年の頭にあったんですよ。

その時お渡しした名刺宛てに、なんと先生が内覧会の招待状を送ってくださったのでした。ありがたや。
展覧会が始まる少し前あたりから、先日ブログにも書いた『サライ』(小学館)や『東京人』(都市出版)でも石川九楊特集が組まれるようになり、予習に事欠かずに済みました。また、『墨』(芸術新聞社)という書道雑誌では詳しいインタビューが紹介されていて、これを読むと石川九楊のキャリアや考えが良くわかったのでした。

かなり詳しく載っていたので、予習を考えている方におすすめ。年表や本展出品リストもついてる。

 

そんなわけで多少の予習を行い展覧会に挑んだのですが。前述の《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ又は死篇》、なんと85メートルもあるんだよ……。これ、どうやって展示するんだろ?千個の盃は?源氏物語 五十五帖は??などなど、会場設営どうなるんだというのも気になるポイントだったのですが、結論から言って会場、すごかったです。

上:《私訳イエス伝》
下:《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ又は死篇》
上:《李賀詩 感諷五首 (五連作)》
下:《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ又は死篇》

 


とにかく圧倒させられる。迫力がすごい。写真じゃうまく伝わらないけれど、オーラというか作品から噴き出してくる力が半端ない。
そういうものに四方を囲まれて、まるでこの世じゃないどこかに閉じ込められたような気分になってくる。(BLEACHとかに出てきそうな……)
あとね、《エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ又は死篇》をはじめ、作品の殆どが露出展示なのです。性善説を信じていないとできない思いきりの良さだよ……。
また、壁に架けられた巨大な《李賀詩 感諷五首(五連作)》。その周囲にあるキリストの慟哭を感じながらこの作品の前に立つ人を見ると、まるで嘆きの壁を見上げる人を見るような気持ちになってくる。

《源氏物語》もすごかった。壁一面にずらっと続くそれぞれの話。

源氏物語の展示風景。五十五帖あります。

朧月夜、心に立ったさざ波を筆蝕に托した《花宴》、光源氏と空蝉の出会いとすれ違いを織物のような緊張感をもって表す《関屋》、浮気・不倫の果てに自殺を決意するという昼ドラみたいな部分を不安定な滲みと矩形を用いて書いた《浮舟》。あらゆる情景をあらゆる線で書いている。実物見ると分かるけど、線がミリペンかっていうくらい細いのですが、当然ながら全部筆で書いている。
そういう線が紙の上で形を成して、恨みだとか憎しみだとか、情熱だとか喜びだとか、愛してるとか好きだとかを生き物のように表現しているのです。

《浮舟》

他にも《カラマーゾフの兄弟》や、《9・11事件以後》など、時事的なものを扱った作品も。ちゃんと近寄ってみると字として読めるので、石川九楊がこの字に対してどういう想いを持っているかというのを、全体ではなくひとつひとつの形で味わうのも面白いと思います。
この辺は藤崎竜先生が好きな人はぜひ見てほしいですね!!!(字の形や配置が藤崎先生の漫画のようなのだ……!!)

行った人のブログとかツイートを見ると分かるけど、書道と関わりのない人がかなり観に行っている。そしてみんな、書道に対するイメージが変わったと言っています。本当にその通りだと思いました。180度変わったというより、今まで書道だと思っていたイメージの範囲が一回り広がったという感じでしょうか。

展示を観終わって、石川九楊が人気の作家である所以が分かりました。
筆一本でこちらの概念を粉々に吹っ飛ばしてくるのだもの、そりゃ人気出ますよね。

 

ところで冒頭で紹介した石川九楊の書を彷彿とさせる話し、「筆の海」。
「筆の海」という言葉、古くは「筆海(ひっかい)」と言い、硯の異名だったりします。

自らの体を硯として、日々という時間を取り込んだ魂を墨にして磨り、そこから文字を紡いでいく。
石川九楊は、そういう書家なのだと思いました。

《妻へ》
展覧会の最後をかざるのはこの新作。奥様へのメッセージ。

 

ああいいなあ、こんな書家がいるかぎり、書家の存在を捨象して、
現在の造形的な芸術は語れないのだなと納得させられる。
――――吉本隆明

 

 

書だ! 石川九楊展
会期: 〜 
会場:上野の森美術館
開館時間:開館時間:午前10時~午後5時 *最終入場閉館30分前まで
公式サイト:http://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=214

※7/15~7/17の三連休はサイン会が。そして9のつく日と土曜、日曜、休日は〝九楊日〟と称して、石川九楊が在館し各種イベントを開催します。

図録は作品に合わせてタテ・ヨコ 2種類で1セットになっていました。みっちり解説付き。

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