舟越保武展「まなざしの向こうに」行ってきた

@練馬区立美術館

舟越桂が好きで、そのつながりで彼の父親である舟越保武を知り、埼玉県立近代美術館でダミアン神父を初めて見た時は、そばにあった大好きなバルセロナチェアに座ることができないほど衝撃を受けた。

「この人は、怖いものを作る人なんだ」。
それは病に冒されたダミアン神父の姿の恐ろしさではなく、危険視され、差別された中へ自らを投じることを厭わない人のもつ「太刀打ちできない清潔な魂」みたいな怖さ、言わば畏怖を具現化する人なのだということ。私みたいなのは、その力強い清潔な光の前ではすぐ灰になってしまう。

しかし時の流れとはたいしたもので、そんな強烈な体験ですらいつしか「清廉な魂を持った彫刻家」という収まりの良い言葉で自分の中に仕舞われた。だから今回の練馬で私は再びひれ伏した。うっかりわかった気になって自分の中で消化した己を恥じた。
この世に神様という存在はいないかもしれないけれど、私たちがそれに対して持っているイメージ・力を秘めている人間は存在するのだ。その人は言葉で人を押さえつけたりしないし、驚かせたり攻撃したりしない。ただじっと、”自分の手から生み出したもう一つのまなざし”を、私に向けてくるだけだ。その”まなざし”にみつめられたら、また、そのまなざしの示す方向を見てしまったら最後で、もう目を逸らすことはできない。あまりにも清らかで美しくて、なんだかよくわからないけれど謝罪したくなる。それはまさに、圧倒的な存在の違いだった。

 舟越保武
<聖クララ>
舟越保武

 

私は強いて言うならアニミストなので、特定の神様は信仰していない。
だが、誰かがそっと自分の神様を信じて静かに生きていたら、それを邪魔してはいけないと思う。小さな庭で丁寧に花を育てるのに似ている気がするからだ。
いつの間にか庭を拡大したり、むりやりこちらの庭に種を蒔くような人でなければ、そっとしておけばいいと思う。そっとしておいてもらえなかった人のために舟越さんは像を作ったし、自分の過去の体験や職業的な使命から、晩年身体が不自由になってからも作品を作り続けた。

一貫してそれらは清く、美しく、それゆえにほんの少しだけ官能的で、でもそんなこと思っちゃいけないんだというくらい尊かった。

 

部屋の中で聖人と対峙していると、どこからか小さく「歓喜の歌(合唱)」が聴こえてきた。
同会場に一部展示されている<長崎26殉教者記念像>の除幕式の模様が映像資料として放映されており、そのバックで流れているのが件の曲であった。

小さく、かすかに聴こえてくるよろこびの合唱は、ある種のやりきれなさと、理想と、祝福と哀しさとが綯い交ぜになってそれでも美しく美しく聴こえた。

sora1

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